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* category: 日記

5月01日 仙台港~女川へ。 

2011.05.01
Sun
23:26

5月1日。
鳴子温泉に泊まった私。
朝、8時に目覚めて露天風呂へ。
案の定雨が降るなか、ゆっくり浸かった。

水を飲み、9:30まで更に寝た。
10:03に鳴子温泉発の小牛田行きに乗り、途中「みのり」を撮ったり前の日のブログを書きながらして小牛田で乗り換えしもって松島へ。

前日までにくにPにお願いして松島駅まで迎えにきて頂いた。はじめまして!

「被災地を迷惑のかからない程度に見て回りたい」という、もしかしたら不謹慎かもしれない私のその言葉に応えて頂いて、くにP号(Car)で海岸線を仙石線沿いに進んだ。

くにPには道中色々な場所を丹念に説明してもらった。
外洋と内湾では被害の著しい差を感じ、昨日と同じく「瀬戸際」を様々な場所で見る事となる。
道中、信号機が点かない主要交差点では警察官の方が慣れない手つきででも、四方から来る車をさばいていた。
仙石線も、被害が著しい場所は線路上に瓦礫•車があるままだったり、架線が寸断されていたり、復旧手つかずの場所も多かった。
途中、丘の上で難を免れたが姿が見えなかった205系が、低い位置に移動されて道路から確認できた時には、私もくにPも安堵した。

石巻を超え、万石浦に入ると女川発電所がある牡鹿半島が遮った事もあり、津波被害はほとんどなかった。それでも深刻なのは高潮位による冠水。波がきたのか高潮かは定かではないが、海岸線を走る石巻線も細かい漂流物があった。
この万石浦で海岸部へ歩いて出て、アイスとおにぎりを食べた。(順番は間違っていない)

海は穏やかだった。亘理の「鳥の海」と同じような地形で、外洋との入り口が狭いからであろう。

万石浦を超えると女川。ここで、何度かテレビで見た光景が目に入る。
高台の家まで波が来た跡があり、基礎しか残っていない場所が坂を下る前から始まっていた。海に向かってゆっくり広がる地形なのがよく分かり、その崖面のコンクリートには赤いスプレーで「がんばろう!」の文字も見受けられた。避難所だろうと思われる高台からは、何かの曲も聞こえた。
海岸部へ降りると、くにPには思い出深いマリンパル女川も見えた。
その周辺には90度に倒れるコンクリート製の建造物。

女川駅なはずの場所に駅舎はなく、かろうじて残った展示タイルを含めた床とエレベーター建屋、曲がったホームの屋根と線路。
駅すぐ隣の高い建物の14mくらいの位置まで津波が来たのであろう、ガラスが割れていた。

ときに地図というのは便利である。しかし、ときに地図というのは非情である。その地図に映し出されたものを、信じ難い。私は地図をしまった。

女川駅前の海岸にも足を運んだ。水が綺麗だ。自分のするフカセ釣りでは、もしかしたら思わぬ魚が入れ喰うかもしれない。
今日は大潮、満潮15:12。ほんの数分眺めただけで、近くに止めていた車の左半分が海水に浸っていた。
万石浦が冠水するかもしれないので早めに引き返した。石巻市に入る頃にはところどころ既に冠水していた。

行きは旧北上川を海岸線にかかる日和大橋から眺めた。帰りは日和大橋の一つ上流側にある石巻市外にかかる橋を渡った。橋の下流側にはあるはずの無い家が何件か、漁船と一緒に引っかかっていた。

桜のシーズンだからと、くにPは日和山へ案内してくれた。ここは石巻市の中でも極端に高い場所で、尾道の千光寺公園のような場所であった。頂上は桜が満開から2割りか散ったくらいで、ヒラリと舞う桜の花びらの向こうに石巻の全体を見下ろす事が出来た。
神社の境内から元気な声が聞こえるので行ってみると、石段の下の広場で、子供達が裸足で道着を着て太極拳をやっていた。その姿はどこかしら可愛い反面、背景に見える石巻の姿を背負うかのような気迫も感じた。

その後、奥松島、松島、塩釜、仙台港と案内をしていただき、夕方17時にくにPとお別れした。

今日も貴重な一日だった。先ほども言ったが、やったことは被災地を見て回ったに過ぎず、もしかしたら不謹慎極まりないのかもしれない。
しかし、ボランティア含めて、今回私が東北に来た理由は、現実を目の当たりにしないと、メディアだけでは現状が見えないのである。「現状を見る必要があるのか?」と言われれば、それは「ある」と答える。何年か後、いつか復興した街に行った時には、もしかすれば津波に対しての対策が出来ていないままになっている現状になるかもしれない。それだけは避けたい。その地でしか生きていけない人もいる。
わかめを採って生計をたてている人、牡蠣を養殖していたお父さん達が願うのは、もう一度同じ場所で漁業をしたい。今回水没した畑で農業をしていた人だって、店舗を構えていた人だってみな同じ。

被災地のほとんどは都会では無い。都会には無い団結力がある。だからこそこの方達をバラバラにするようなことがあってはならないのである。
たしかに人命が第一。しかし、生計の源「自然の中で働くこと」を断つ事は、
この人達の様々なものを断つ事になってしまう。

くにPが言っていた。「『とにかく生きて!』そう思った」と。

私は思った。今、復興という長期戦に立った被災地の心を救うもの。それを考えなければならない。相対的ではなく、絶対的に。課題が多すぎるだろう。復興には予想外の時間がかかる…それは現地を目の当たりにした人みんなが感じる事であろう。今、自分にできる事。今日強く感じた「団結力」を、現地の人だけで結成するのではなく、ボランティアでもいい、NPOでも個人でもいい、現地に応援に行く人達もまざって団結する。

公的に登録した上、復興に勤しむ人達の姿に期待して、個人宅の復旧依頼をお願いしてくださる被災された方の気持ちを思うと、それに応える事が力になる事は間違いではない。もちろん、他都道府県から様々な人が集まる事で不安やリスク要素もある。しかし、街のライフラインが機能再開している中、進んで「誰かのためになりたい」「力になりたい」そう感じた方の足止めをするかの様に、ボランティアを受け入れる事が出来ない体制と言うのが非常に残念である。しかし、これらはボランティア運営をしている各自治体や団体には一切責任も問題も無い。結局は政府の動きがはっきりすれば、やるべき時とそうでない時、やるべき場所ややるべき事などが明確になって混乱も最小限度に防げるのではないか?
もし何ヶ月もこのままなら、自治体のボランティア組織が疲れ果て、集うボランティアの方も遠のき、いずれは機能しなくなりかねない。
私は関西に帰ったら、このボランティアの動向について深く調べたいと思う。

最後に。くにP、今日は一日中被災地の案内して頂いた事感謝いたします。
かつて、阪神淡路大震災直後に灘で見た光景と同じく、この体験は私が死ぬまで焼き付いているだろうと思います。
次会う時は後ろ髪が一切引かれない様な気持ちで、一緒に観光ができたらいいですね。そのためにも、経済がめげぬ様に仕事をしつつ、東北の地をこれからも見守りたいと思いました。
本当にありがとうございました!
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